【World Life】とは?
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NY日本人ビジネスマンの先駆け

World Lifeな生活
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宮崎大二郎氏、享年91歳

1932年満州生まれ、東京育ち。一橋大学を卒業、1971年にニューヨークに。高島屋、日本航空、旧東京銀行、富士フィルムなどの日系企業に勤務した後、古本不動産顧問などを務めた。

第二次世界大戦を生き延び、その後の混乱の中、1ドルが360円だった時代。日本の高度成長の波に乗って、ニューヨークでグローバルな日本人ビジネスマンの先駆けとして自由自在に飛び回って大活躍、財を成された1人の日本人が、1世紀まであと数年、の生涯を終えられました。

今日はこの宮崎大二郎氏のお話を、ぜひ日本の皆さまにお伝えしたいと思います。

最初に出会ったのは10年ちょっと前。東京で、私がジャズシンガーのリサイタルでピアノのお仕事があったときに、その出演者のお友達で、ニューヨークから日本へちょうど里帰り中です、とおっしゃっていました。

その後打ち上げパーティーの時にご紹介頂き、お互い、マンハッタン在住ということで住所を確認したところ、なんとご近所さん。それからは、チャンスあれば一緒に飲んだり、お誕生日を祝ったり、私がたまたま車で日本のスーパーに出かけたときには、お米や一升瓶の日本酒を購入して届けたりと、仲良くさせていただいていてました。

とてもセンスのある、いつもジョークを飛ばして、ガハガハ笑ってる、楽しいお一人暮らしのおじいちゃまで、お友達も多く、晩年の10年ちょっとでしたが、楽しいひとときを過ごさせていただいていました。

 

宮崎大二郎さんは、今年の 1月20日、ニューヨーク市内の施設で友人達に看取られて、亡くなられました。癌だったそうです。なんと92歳のお誕生日の前日でした。

お誕生日には友達みんなで、この大さん(宮崎さん)をウィールチェアに乗せて、Arturo’sにカヨさんのピアノを聴きに行っちゃおうか!なんて冗談まで出ていた位でしたが、叶いませんでした。

もちろん以前何度も、私の演奏には追っかけで、来てくださっています。

この施設は、ホスピスと言うもので、あと余命がどのくらいか大体わかった患者さんが入る、終の住処です。

大さんがとってもお金持ちだったからだとは思いますが、アッパー・イースト・サイドの、新築21階、イースト・リバーが見渡せるスイートで、キッチンや冷蔵庫付き、ソファがいくつかあるようなお部屋に、入っておられました。

いつ尋ねても、お友達がたくさんいらしていて、看護師さん達に、呆れられてるって皆さん笑いながらおっしゃってました。このお部屋がとても快適なので、皆さんお見舞いに見えると、ここで飲み食いしたりして、ずっとおしゃべりしておられるみたいで、いわゆる社交会の「サロン」のような状態になってました。(笑)

気になる、このスイートルームのお部屋1日あたりの使用料ですが、保険は最初の数十日しか効かないということで、後は自費で、1日700ドルとちょっとぐらい、とお友達がおっしゃっていました。日本円にすると、1日で10万円ちょっとという感じで、日本の、特別室みたいな感じなのでしょうか。

「ニューヨーク生活」そして「読みタイム」という、日本語の新聞がニューヨークにあります。本当に素敵なご隠居さんだったので、ちょっとこれらの新聞の訃報欄から、情報を引用、一部注釈もいれさせていただきますね。

この方の人となりが、想像おできになるでしょうか。50年と言えば、半世紀。この長きに渡るニューヨークでの暮らしぶり。エリートで、人気者で、素敵な方でした。

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ニューヨークでは、ストラビンスキー(ロシアの作曲家)や東京ローズ(説明が難しいかも)、雪子アーウイン(ベンジャミン・フランクリンの子孫で、東洋医学の橋渡しになった)、中村喜春さん(江戸っ子芸者)らとも交友を深めた。

アッパー・ウエスト・サイドのアパートには世界から訪問客が絶えず、優しくユーモアとウイットに富んだ笑顔で、ニューヨーク日系人会でも多くの友人に恵まれ、ニューヨークのジェントルマン「大さん」と呼ばれ親しまれた。
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この大さんがニューヨークに来たときの最初の職業は、日本航空でのファーストクラスのフライト・アテンダント、だったそうです。当時確か米ドルが360円位でしたから、その頃のJALのファーストクラスに乗るお客様と言えば、確かに一流企業の、社長さんクラスだったのでしょう。

その方たちと接してるうちに、「君が日本航空を辞めたら、ぜひうちの会社で働いてほしい」、という感じで、どんどんヘッドハンティングされていったらしいです。

当時、1970年代と言えば、日本企業がどんどん世界へ翼を広げていった時代。その波に乗って、ニューヨークで大活躍され、とっても面白い一生を終えられたそうです。

晩年も、とても愉快なかたでした。とにかく家にはいません。いつもどこかへ出かけています。松葉杖になっても、ウォーカーになっても、車椅子になっても、いつもどこかで誰かと、何かの集まりとか、コンサートとか、打ち合わせとか、お出掛けになってました。あのエネルギーはすごかったなぁ。

見習わなくちゃです。

今回は、そんな宮崎大二郎さんを紹介させて頂きました。

それではまた来週♫

 

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