こんにちは
NYのKayoです。
ニューヨークで暮らしていると、人々の間で「 God (神様) 」という言葉の輪郭が、ずいぶんはっきりしていることに気づきます。
いるか、いないか。信じるか、信じないか。
二者択一、とてもシンプルです。そして、時には争いの原因にもなってしまうのが、「どの神か」という違い。
これらのことが、欧米では社会全体をどこか緊張させているのかも、などと思いながら日本に帰ると、その輪郭は急にぼやけて、代わりに、なんとも言えない、気配のようなものが立ちのぼってくる感じが致します。
<伊勢で感じた静けさ>
昨年日本を訪ねた折に、お伊勢参りに行きました。時代劇が大好きでして、それで、一生に1度はお伊勢参りに、とよく聞くので、一度は行ってみたかったのです。
早朝の参道を歩きながら、私は不思議な感覚に包まれました。何かを強く信じているわけではないのに、背筋がすっと伸びるような静けさ。なんと気持ちが良い。
そしてそこでは、毎日欠かさず、神様に、食材まで自給自足でまかなったお食事を毎日お供えしていると聞き、「本当に召し上がるのかしら」と思いつつも、その営みの丁寧さに、ただただ頭が下がる思いでした。
ガイドさんも熱弁をふるって説明してくださったので、とても感動しました。そうやって丁寧に作ったお食事を奉ることで、お伊勢さまは、五穀豊穣や世界の平和を守ってくださっているのですね。
<沖縄の聖域という衝撃>
そんな折に見た、沖縄の「ウタキ」の映像。そこは建物もなく、ただ「入ってはいけない」とされる場所でした。正直なところ、日本人の私でも驚きました。こんなにもはっきりと「ここから先は神様の領域」と線が引かれているなんて。
けれど同時に、ああ、これが日本の神様の原点なのかもしれない、とも感じたのです。映像ではそこまでわからないけれど、実際に行ってみると、きっとそこに住む人々は、古来から漂う特別な空気というか、不思議なものを感じたに相違ありません。
<信じるより、敬う>
考えてみると、日本人は神様を「信じている」というより、「敬っている」のかもしれません。山や木や水や岩に、何かが宿っているような気がする。
その気持ちを、無理に言葉にせず、そのまま大切にしてきた。だからこそ、神様にご飯を出す行為も、「食べるかどうか」ではなく「続けて、お祈りすること」に意味があるのでしょうか。
<曖昧さという居心地>
アメリカでは、「それって本当?」と問われることがよくあります。
でも日本人としては、その問い自体が、少し野暮に感じられるような気が。
信じているようで、そこまで深くは信じていない。でも、やめる理由もない。この曖昧さが、実は心地よいのかもしれません。ちょっとうまく言えないけれど、白黒つけないことで、守られているものがあるような。
<出雲へ向かう気持ち>
来月5月には、出雲大社を訪れる予定です。特別な信仰心があるわけではありませんが、それでも、なぜか足を運びたくなる。
この、日本人なら1度は行ってみたい、「なんとなく惹かれる感じ」こそ、日本人の神様との距離なのかもしれません。近すぎず、遠すぎず。
ただそっと日常の隣にいる存在が、なんとも心地よい。
日本人は、遠い昔から、このように自然のあちこちに、私たちを守っていてくれるものがある、ということを感じていたのでしょうか。
Shintoism (神道)、当の我々日本人は、たぶん、そんなふうにカテゴリーを考えることはまずありませんが、そんな唯一の貴重な神様との関係を、これからも大切にしていければ、と強く思います。
それではまた次回♫
Kayo
平木かよ / Kayo Hiraki
ニューヨーク在住 2017年より、世界屈指の米国グラミー賞の投票権を持つ。同じく米国スタインウェイ・ピアノ公認アーティスト。現在、グリニッジ・ビレッジのジャズの老舗「Arturo’s」のハウス・ピアニストとして、週に5日、自己のトリオで演奏活動を続けて26年目。ニューヨーカーに、スイングの楽しさを届けている。ベースの巨匠、ロン・カーターとのトリオで、ブルーノート・NYへも出演。JALの国際線機内誌でも、海外で活躍する日本人として大きく取り上げられた。また、舞台「ヴィラ・グランデ青山」では山田優がジャズシンガーに扮するシーンでの、ミスティーのピアノ伴奏。カナダ・トロント・リールハート国際映画祭でブロンズメダルを受賞した映画「Birth Day」への挿入曲提供と共に、ピアニスト役で出演。フランス・パリ日本文化会館での館長招聘コンサートや、台湾にて、最大規模を誇る、台中ジャズフェスティバルへの出場など、世界を股にかけるスイング感あふれる彼女のピアノとボーカルには、定評がある。定期的に、くにたち音楽大学ジャズ専修で講義を持つ。





