硫黄島シリーズの第2段は,人間の縁についてお話したいと思います。
※第一弾はこちら
私,Swatchの硫黄島訪問は,米海兵隊司令官の広報によって,「バンカー・トゥ・バンカー・ツアー(日本軍の掩体壕をめぐる旅)」*として,米海兵隊のみならず,太平洋・インド地域にある米軍基地で有名なツアーになりました。
日本軍の構築した掩体壕(バンカー)をめぐり,日本軍が硫黄島を死守するため完璧な守りをしていたこと,上陸した海兵隊員が,そのような難しい状況で日本軍よりも多くの死傷者を出しながらも,勇猛果敢に戦い島を占領したことを知る研修です。
Swatchのツアーコンダクターぶりも,なかなか板につき始めた頃,一通の英文メールが届きました。差出人は,“The United States Forces Korea” 在韓米軍司令部からでした。
韓国の米軍司令部から何の用だろう?
「硫黄島バンカー・トゥ・バンカー・ツアーの出張依頼について」???
*バンカー(bunker:掩体壕)とは,敵の爆弾(砲弾)から身を守るために,地中に穴を掘って作った安全な場所のことです。
<韓国仁川空港で拉致される?>
米韓米軍司令部から,硫黄島研修支援の依頼でした。今回は,海兵隊側の担当である上級曹長が米国出張で,私一人で韓国の仁川(インチョン)空港へ飛び立ちました。
空港に到着し,コンタクト成功!お互いの氏階級を名乗るだけで,駐車場に案内され,軍用車に乗り込んだ。米軍基地についたが全くどこにいるか分からない。まるで拉致されたようだ。地下の会議室に通され打ち合わせが始まる。
拉致されて3時間,時計は午後6時を回っていた。明朝の2時に基地まで来てくれと念を押された。そのまま別れ,タクシーでホテルに向かう。ソウル新羅ホテルである。
ホテルにチェックインし,すぐさま,タクシーの予約をフロントに頼んだ。自分がどこにいるかの実感がない。それにしても豪華なホテルだ。数時間寝るだけではもったいない。
米空軍機で硫黄島へ
深夜に起床し,洗面を済ませ,ホテルのロビーに降りていく。タクシーの予約を確認する。順調だ。フロントでタクシー代の払い方などを聞く。妙な緊張感がある。なぜだろう?
良く考えてみると,第3国で活動するスパイのような感じだ。直接手助けしてくれる仲間がいない。何かがあっても,在韓米軍のスタッフに頼るしかない。不思議な気分である。
司令部について軍用バスで移動する。どこへ連れていかれるのだろう。バスを降りて,狭い階段を上がり2階にあがると,飛行場の搭乗口のような景色が開けた。暗くて良くは見えないが,長机が一つ置かれ,2名の軍人が座っていた。
パスポートの提示を求められる。後ろから担当将校が,
”Immigration check”(出国審査)
と呟く。え!これから搭乗するのか。言葉を発することもなくチェックインが終わり,米軍機に登場する。
驚きである。まばゆい室内灯に照らし出された,清潔で真新しい座席が並んでいる。
“Korean Air?”(大韓航空)
とつぶやくとまた後ろから声がした。
”US Air Force!” (米空軍だよ!)
これはすごい。米空軍高官輸送機と思われる。民間の航空機より豪華である。
一路,韓国のある空港から,日本海,日本上空を飛び越え,硫黄島へ到着する。硫黄島の滑走路に,米空軍高官輸送機が停まっている光景は初めて見た。壮観で美しい。数時間後,空軍機は島を飛び立っていった。
研修は天候にも恵まれ,上陸海岸から摺鉢山の祈念碑を経て,徒歩で一周する約6時間のコースだ。
上陸海岸では,海兵隊隊員は持参のペットボトルに砂を詰めて持ち帰る。思うことは全く違うが,高校野球で甲子園の土を持ち帰るような光景だ。一人での説明だったが良い研修だった。
帰国予定の時間が過ぎても,何も指示がない。軍隊は、部隊で一斉に行動するので,必ず行動の前には,準備の指示がでる。指示通りに動けば,全体に遅れることはない。それが規律の基本となる。
飛行機が来ない,泊まるところもない,食料もない
空が赤く染まり,周りも薄暗くなってくる。同行の少佐が自衛隊基地司令部へ呼び出された。司令部は,シフトで夜の勤務に移っていた。「帰りの便がキャンセルらしい」と少佐はつぶやく。
研修隊は,硫黄島に一泊することとなった。夜露が降りはじめ,夜はかなり冷えそうだった。急な予定の変更は,誰でも一度は経験したことがあるだろう。個人で旅行ならば,自分一人の対応で,どうにかなるものではある。
しかし,軍の部隊は違う。一泊とはいえ,寝るところもなく,食料もない。衣食住に関することを軍隊ではロジスティックスというが,その責任はリーダーにある。
兵士が空腹を我慢し,着の身着のままで野宿し体力を消耗させるのは,リーダーには屈辱的なことである。海兵隊少佐は,あらゆる手段を講じて,輸送手段の確保に傾注している。
私は,陸上自衛隊と海兵隊の連絡官である。できることは,現地における自衛隊との調整しかない。
連隊長じゃないですか!
基地司令部へ駆け込む。米軍の航空機のキャンセルは周知されている。先任幹部のもとへ行き,調整する。到着時に,基地司令(硫黄島に駐留する部隊のトップ)に表敬し,支援を約束していただいたのも心強い。
海兵隊員は,食料もない,寝るところもない状況で,不平を言わず,自律的に行動している。腹も空いているだろう。それが証拠に,島の滑走路の休憩所にある飲み物、スナック菓子、カップ麺等10台ほどの自販機はすべて売り切れていた。海兵隊員が購入したのだ。
単刀直入に,寒さと夜露をしのぐため,体育館を一晩海兵隊員のために貸してくれないかとお願いする。状況は急進展する。基地司令から,硫黄島米軍用の宿泊施設の使用許可がでたのだ。ベッドに毛布とシーツが使えるのだ。海兵隊員にとっては,天国だ!
「寝るところは,確保できた!」とつぶやきながら,足はある方向に向かっていた。
速足から駆け足になり5分ほど走ったところで,おいしそうな匂いがしてきた。空腹にはこたえる。胃袋が即座に反応し,大きな音を立て始める。基地の隊員食堂の前にたどり着いた。
島の中で,食料が確保できるのは,島に勤務する隊員や職員が食事をする隊員食堂以外はない!
ドアを開け,配食サービスカウンターの前で立ち止まる。
初老の白い配食服を着た男性の後ろに立った。「すいません。海兵隊連絡官の諏訪と申します」といった瞬間,男性が振り返った。「諏訪君か?」
「え!連隊長!J連隊長じゃないですか!」と言ったきり,絶句した。25年前に名古屋の35普通科連隊でお世話になった恩師との再会であった。恩師はその時,自衛隊のアウトソーシングを支援する会社の部長職で,たまたま硫黄島に出張していたところだったのです。
矢継ぎ早に,現況を報告し,夕食の提供をお願いした。「ああ,食ってくれ!」心にしみる一言が聞こえた瞬間,熱いものが頬をつたわった。お礼の言葉もなく、恩師の顔を見つめた。
偶然というのは,必然であると私は思っています。世の中には偶然はなく,何かの因果で結果となって表れる。そんな思いが頭をよぎりました。
一宿一飯の恩義は,レジェンドに?
海兵隊少佐に,宿泊施設への移動と夕食の無料提供について海兵隊員に指示をだすようお願いした。
少佐が,
“ You are the man” (すごい奴だな!)
とからかうので,
”I’m a Japanese marine!” (海兵隊員だ!)
と言いお互いにがっちりとハグをした。
元連隊長と一緒に食堂のサービスカウンターの前で腹をすかした海兵隊員を待ち受けた。若い海兵隊員が満面の笑みで食堂に入ってくる。
元連隊長から,英語で挨拶の仕方を教えろと命ぜられ,海兵隊員はすべて「Urahhh!」(ウラッ)と「吠えます!」と伝えた。自衛隊の「押忍(オスッ)」と同じ要領です!
彼は,私が
“My Regimental Commander”(私の連隊長です)
と紹介すると,本当に嬉しそうな顔をされ,連隊長の威厳を示して,海兵隊員に「ウエルカム」と話しかけた。海兵隊員が「ウラ!」と吠えると顔をしわくちゃにしながら「ウラ!」と応じてくれたていたのを思い出します。
残念ながら,その後は,元連隊長とお話しする機会もなく,硫黄島を後にしました。日本から韓国,そして硫黄島と空を飛び,25年来の恩師との再会で,再び一宿一飯の恩義をいただきました。
その後も何回か硫黄島研修は続きました。一つ変化が現れました。海兵隊員が良く話しかけてくるようになったのです。研修の際も,海兵隊基地で調整する際も,誰かが気に留めてくれるという感じがしました。
“He is a marine LNO !(Liaison Officer)”
「俺たちの連絡官だ!」と呼ばれているようでした。
海兵隊員は、硫黄島での一宿一飯の恩義を言い伝えてくれているようです。私と元連隊長との最後の思い出です。
執筆家・英語教育・生涯教育実践者
大学から防衛庁・自衛隊に入隊。10年間のサバイバル訓練から人間の生について考え、平和的な生き方を模索し離職を決断する。時を同じくして米国国費留学候補者に選考され、留学を決意。米国陸軍大学機関留学後、平和を構築するのは、戦いを挑むことではなく、平和を希求することから始まると考えなおす。多くの人との交流から、「学習することによって人は成長し、新たなことにチャレンジする機会を与えられること」を実感する。
「人生に失敗はなく、すべてのことには意味があり導かれていく」を信念として、執筆活動を継続している。防衛省関連紙の英会話連載は、1994年1月から掲載を開始し、タモリのトリビアの泉に取り上げられ話題となる。月刊誌には英会話及び米軍情報を掲載し、今年で35年になる。学びによる成長を信念として、生涯学習を実践し、在隊中に放送大学大学院入学し、「防衛省・自衛隊の援護支援態勢についてー米・英・独・仏・韓国陸軍との比較―」で修士号を取得、優秀論文として認められ、それが縁で定年退官後、大規模大学本部キャリアセンターに再就職する。
修士論文で提案した教育の多様化と個人の尊重との考えから、選抜された学生に対してのキャリア教育、アカデミック・アドバイジングを通じて、キャリアセンターに新機軸の支援態勢を作り上げ、国家公務員総合職・地方上級職、公立学校教員合格率を引き上げ高く評価される。特に学生の個性を尊重した親身のアドバイスには、学部からの要求が高く、就職セミナーの講師、英語指導力を活かした公務員志望者TOEIC セミナーなどの講師を務めるなど、大学職員の域にとどまらぬ行動力と企画力で学生支援と教員と職員の協働に新たな方向性をしめした。
生涯教育の実践者として、2020年3月まで東京大学大学院教育研究科大学経営・政策コース博士課程後期に通学し、最年長学生として就学した。博士論文「米軍大学における高等教育制度について」(仮題)を鋭意執筆中である。
ワインをこよなく愛し、コレクターでもある。無農薬・有機栽培・天日干し玄米を中心に、アワ、ヒエ、キビ、黒米、ハト麦、そばを配合した玄米食を中心にした健康管理により、痛風及び高脂質血症を克服し、さらに米軍式のフィットネストレーニング(米陸軍のフィットネストレーナの有資格者)で筋力と体形を維持している。趣味はクラッシック音楽及びバレエ鑑賞。
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