ちょっと曇り空、4月も末の火曜日、夜7時過ぎのニューヨーク、マンハッタンのグリニッジ・ビレッジ。
32歳のディビッドは、父親の愛車マスタングを借りて、ホールフード・スーパーマーケットまで買い出しに出ていた。買い物が終わって、いちど車のトランクにグロッサリーを詰め込んだものの、ちょっと気になるフードベンダー(屋台のようなもの)があったので、エンジンをかけたまま、車にロックだけして、ベンダーに立ち寄った。
ベンダーで、チキンラップをオーダーし、ふと気になって後ろを見ると、なんと、2人の若者が、自分の車に乗り込むところだった。
しまった!!
直ぐに戻ろうとするも、既に車は出てしまった!
デイビットは、とにかく走って車を追いかける。マンハッタンの街中、通行人も多く、車は渋滞でスピードを上げられない。
「車を止めろ!、今返せば、警察には言わない、許してやる、だから黙って車を降りろ!」
しかし、彼らは完全にディビッドを無視した。大バカ野郎どもだ!
まだ渋滞は続いている、うまく行けば追いつけそうだ。
デイビッドは「俺の車が盗まれてる!!」と叫びながら、マスタングを、全力で走って追いかける!
人々が振り返る、写真を撮るものもいる。
全力で走るも、こっちは人間。息がハアハア上がって、これ以上はもう息が続かない・・・。
27*ブロックほど追いかけたところで、なんと思いもかけぬ、救いの神が!!
(*ニューヨークの1ブロックは、約50m。27ブロックは、約1350m)
家族連れのファミリーカーが1台、なんと彼のために急停止してくれたのだ。車には多分奥さんと子供。ドライバーは、助手席に乗っていた子供を、後ろの座席のワイフにポーンと投げ、「ここに乗れよ、レッツゴー!」と!
「ええっ?ほんと?!」
「もちろんさ!!」
助手席にデイビットが乗りこみ、ドアを勢いよく閉めるのとほぼ同時に、ドライバーはギアを入れ、思いっきりエンジンをふかす。
マンハッタン内で、カーチェイスが始まった。盗まれたムスタングは、グリニッジビレッジから東へ、南へ、ソーホーを抜け、チャイナタウンを抜けて逃げる。
ファミリーカーのドライバーの運転の腕前も、見上げたものだ。デヴィッドは、
「赤信号は全部無視しろ!、違反チケットは俺が全部払う!」
とファミリーカーのドライバーを煽る。
盗まれた車が、渋滞につかまって止まった。
デイビットはファミリーカーから走り出し、盗難車の助手席を思いっきり開け、中から1人の若者を引きずり出し、殴り合いになる。
こいつはデカい。190センチ、90キロはありそうだ。ディビッドも長身190だが細身。しかし、子供の頃から太極拳をかなり真剣に練習し、今でも毎週ボクシングのジムに通っているので、負けるとは思わない。
が、バカスカ殴り合っていたところで、車の列が動き始めた。それを横目で見た、盗っ人の若者は、殴り合いの隙をみて抜け出し、思いっきり車へ向かって走り、ジャンプイン、車はまた走り出してしまった。
クソ!再びカーチェイスは続く。
とうとう盗まれたムスタングは、キャナルストリートを、*ホーランド・トンネルへ向かい始めた。
ホーランド・トンネルを超えると、そこは隣りのニュージャージー州。トンネルを抜けてしまえば、道路はそのまま、デラウェア州やメリーランド州など、あらゆる州へのハイウェイとつながっている。なので、ここで逃してしまうと、もう車の取り返しは無理に等しい。
(*1996年、シルベスター・スタローン主演の映画「デイライト」の舞台となったトンネル。)
盗難車はとうとうトンネルに入ってしまった。ハドソン・リバーの底をニュージャージー州に繋ぐ、約3km弱のホーランドトンネル内で、カーチェイスは続く。
その時すでに、デイビットはポリスと直接、携帯電話で話している。
「盗難車はホーランド・トンネルへ入った!トンネル内を全てシャットダウンするなら、今だ!」
カーチェイスが続く中、なんとここで、もう1台、車の助っ人が入った。
なんと盗難車を、左サイドから右側の壁に向かって思いっきりブロック!!
ムスタングは無残にも、フロントがグシャッと潰れて、止まった…。
数分後、前後から、けたたましいサイレンとともに、ポリスカーが駆けつけた。ポリスたちによって盗難車から引きずり出された2人は、なんと18歳と16歳の少年。
助手席に乗っていた、ばかでかい少年は、16歳の方だった。18歳の少年は、なんとつい数日前に刑務所から出てきたばかり。また、戻ることになってしまった。一瞬の出来心が、若い彼らの一生の運命を、大きく変えた———–。
その後、ディビッドはニュージャージー州の警察へ、200ドル分も買った、大きなスーパーの袋を抱えて同行。夜半過ぎまでペーパーワークを作る羽目となった。
ファミリーカーのドライバー家族へは、日を改めて、ちゃんとお礼をすることになるだろう。彼らがいなければ、とっくに今頃、ディビッドの父親の愛車マスタングは、遠いステートで、安く叩き売られていたに違いない。
自分の車で盗難車をブロックして止めてくれた車も、側面が潰れたそうだ。マスタングの修理代と併せて、数千ドルになるだろうが、それは保険では支払われない。盗難車を運転していた人間がまだ18歳なので、その家族に全額請求が行くだろう。やっと刑務所から出てきた息子が、今度は多額の負債を保護者に背負い込ませた…。
これは実際にNYの友人に起こった話。
全長3kmのホーランド・トンネルは通行止めとなり、交通にも甚大な影響が出ていたのだけれども、どこのニュースにも取り上げられていない。
特別な話ではなく、普通のニューヨーク、普通の1日だから。
ではまた来週☆
Kayo
平木かよ / Kayo Hiraki
ニューヨーク在住 2017年より、世界屈指の米国グラミー賞の投票権を持つ。同じく米国スタインウェイ・ピアノ公認アーティスト。現在、グリニッジ・ビレッジのジャズの老舗「Arturo’s」のハウス・ピアニストとして、週に5日、自己のトリオで演奏活動を続けて26年目。ニューヨーカーに、スイングの楽しさを届けている。ベースの巨匠、ロン・カーターとのトリオで、ブルーノート・NYへも出演。JALの国際線機内誌でも、海外で活躍する日本人として大きく取り上げられた。また、舞台「ヴィラ・グランデ青山」では山田優がジャズシンガーに扮するシーンでの、ミスティーのピアノ伴奏。カナダ・トロント・リールハート国際映画祭でブロンズメダルを受賞した映画「Birth Day」への挿入曲提供と共に、ピアニスト役で出演。フランス・パリ日本文化会館での館長招聘コンサートや、台湾にて、最大規模を誇る、台中ジャズフェスティバルへの出場など、世界を股にかけるスイング感あふれる彼女のピアノとボーカルには、定評がある。定期的に、くにたち音楽大学ジャズ専修で講義を持つ。