あなたは、米海兵隊の中で仕事をしろ、と言われたらどうしますか。
米海兵隊も何も、そもそも軍隊っていう存在が良くわからないですよね。
そんな、非日常的な生活経験を話すことができるのが、Swatchの強みです。
2001年に、アメリカ陸軍の留学から帰国し、防衛省での勤務を再開したころ、転勤の話が、、、、。
転勤は、本人のところに話が来る頃には、ほとんど決まった状態で、
あとは本人が“Yes, sir”と言えば決まります。
辞令書には、「防衛部勤務を命じる」と書かれていました。
「あ~、スリッパ異動か!」
<防衛部勤務を命じる(勤務地 那覇駐屯地)?>
「スリッパ異動」って、あなたは聞かれたことはないと思いますが、本社ビル内で、部署替えがあるという感じです。通常の「異動(転勤)」のイメージは、引っ越しが伴う感覚ですね。
米軍も、そういった軍内の専門用語でも区分しています。引っ越しを伴う転勤は、PCSと言います。Permanent Change of Station(基地・駐屯地を永久に変わること)です。分かりやすい!
防衛省では、同じ建物のなかで部署を変わることを「スリッパ異動」と言います。
つまり、そのまま廊下を通って、新しい部署に行くことができる部署替えということ。
辞令書には、「勤務を命じる」の後に、(○○○ XXXX)かっこ書きがありました。
良く見ると、(勤務地 那覇駐屯地)????!!
<沖縄の海兵隊基地へ転勤>
(勤務地 那覇駐屯地)というのは、勤務地を指定するということです。分かりやすく言えば、
籍を東京の職場に置き、実際に勤務するのは沖縄の那覇駐屯地と読み解くわけです。
辞令発令の当日、新部署の防衛部のメンバーの前で、挨拶をすることになりました。
「本日付で、防衛部勤務となりました」と切り出し、「よろしくお願いします」と挨拶をします。
次の瞬間、「同日付で、沖縄に島流しになりました。」と続け、周りから「お~」という驚きと、笑いが同時に起きました。これ、海兵隊の司令部で勤務することだったのです!
そのまま、羽田空港から那覇に飛び、沖縄での生活が始まりました。用意された宿舎は、3DKの新築の高層マンションの1階。3階の廊下からは、真っ青な海が見えます。
沖縄の勤務は、那覇駐屯地に事務所をかまえ、東京の職場との連絡を確保、宿舎からは車で10分、事務所から官用車に乗り換え、高速道路を飛ばし、海兵隊司令部まで約1時間半のドライビング。
それから毎日、土日も祝日もなく米軍基地に通うことになった。基地内は、アメリカ様式。英語がコミュニケーション手段となる。アメリカの有名なレストランがたくさんあります。
基地内は、海兵隊員と日本人従業員。Janitor(ジャニター:掃除のおばさん)に出会うが、「ちゃーがんじゅう」(元気ですか)と挨拶されても、うちなんちゅう(沖縄県人)の言葉は分からない。
そもそも、「ナイチャーね?」といわれても訳が分からない。内地(本土)から来た人という意味。「ナイチャー」には、沖縄県民の都会への憧れと「よそ者」という若干の差別感が含まれている。
米陸軍に留学直後だったので、英語に特に問題はなかったが、身長が2mを超える海兵隊員からいきなり“woorah”(ウーラ)と言われたときには、面食らったところはある。
筋肉隆々の海兵隊員から、(ウーラ!)と吠えられれば、あなたも驚くに違いない。ウーラとは、「OK、イイね、すごい、やったぜ、頑張ろう!」というなんでも表現できる海兵隊の挨拶の言葉。
<海兵隊のモットーとは!>
海兵隊は、一言で言えば、(素直で頑強)である。ネットで若者が海兵隊に入隊してから、ブート・キャンプ(Boot Camp:新兵教育隊)での訓練ドキュメントあるので、ご覧なることをお勧めする。
娑婆との交流を断ち切り、ひたすらトレーニングに取り組み、日々海兵隊員になるために、成長していく過程が垣間見られる。
卒業の日に教官から“You are a marine!”(これで、お前も海兵隊員だ!)と初めて自分のことを「マリーン」(marine:海兵隊員)呼ばれ、階級章を授与される感動の瞬間まで記録されている。
呼び方が「お前」から「海兵隊員」に変わることの誇りが、伝わってくる。海兵隊員としての、アイデンティティ(identity)とともに、米国民としてのアイデンティティが確立するのだ。
海兵隊で生活するには、3つのモットーを、常に頭に置いておかなくてはならない。
先ほど説明した、“woorah!”という挨拶がいつでも口をついて出ることも大切。
2つ目が、Semper Fidelis! (センパ・フィデリス)である。意味は「常に忠誠を」である。
海兵隊員は、メールの文末のVery Respectfully,の後に、Semper Fi!あるいは SFと省略形で打ち込むことが多い。センパファイと発音する。
3つ目は、“Once a Marine Always A Marine!”(一度海兵隊員になったら、生涯、海兵隊員である)だ。厳しい新兵の訓練を経て、マリーンと呼ばれるようになったら、除隊しても、一生涯、海兵隊員である誇りを忘れず、国家のために忠誠を尽くし、国民の模範たれ!という教えです。
Swatchと沖縄で一緒に勤務した最先任上級曹長(Sergeant Major:サージャンメジャー)は、定年後自宅を構え、広々とした庭に国旗掲揚塔を建て、毎朝、国旗と海兵隊旗を掲揚しています。
国民の模範たれ、国家のために忠誠をつくすというのは、実際には、どういうことか。海兵隊員は除隊すると、それぞれの出身の州や町で公務員として引っ張りだこなのである。
国旗掲揚塔のある庭にすむ上級曹長も、出身地の郵便局長を定年後に勤めていた。誇りをもって生活できる所以です。
<俺を戦場から連れ帰ることができるか>
1年ほどすると、海兵隊員の中にも、基地の中で自衛官が勤務しているということが認識されてくる。海兵隊の司令官の行くところに、いつもついてくるJapanese Armyがいるという噂。
海兵隊と自衛隊の迷彩服の模様が違うので、一目でわかる。米軍はその頃、新迷彩服にデジタル・パターン(デジタル模様)を採用し始めており、旧来の自衛隊の迷彩とは全く見た目が違った。
あるとき、下士官のトップの交代式で、海兵隊員に囲まれた。日本人が珍しいらしく、またJapanese Army という認識から、Armyがなぜ海兵隊基地にいるのかという違和感を抱いているのだ。
Armyではなく、Ground Self-Defense Forse(陸上自衛隊)だと説明するが、海兵隊にもGround Force(地上部隊)という概念があるので、理解してくれた。
周りを海兵隊員に囲まれて、質問攻めにあっていると、筋肉隆々のアフリカン・アメリカンの軍曹がやってきた。
若い海兵隊員が気を付けをして、“Wraaah!”と吠える。黒人の軍曹は、“wwwwr”と喉を鳴らす。
海兵隊員のことをブルドッグと形容することがある。実際には“Devil Dog”だが、その動物的な殺気が感じられる瞬間だ。
“Great look!Sergeant!”(ガタイイイな、軍曹)と軽口でジャブを入れる。
軍曹が口を開いた。「Wrrrr!」
“We should take my marines home from the battle field!”
(俺たちは、部下を戦場から連れて帰るからな)
続けて、
“Can you do that?! Sergeant Major”
(あなたにできますか)
と挑戦してきた。
“No, but I don’t let you go to the Heven alone”
(できないけど、一人で天国にはいかせないよ)
“Wraaah!Sergeant Major, You’re a marine!”
(上等!上級曹長。あなたは仲間だ)
と吠えた。
短いチャレンジ(駆け引き)で、気心が知れたのか、ニコッとお互い微笑んだ。その後、彼は偵察隊の要職に就き、自衛隊幹部の研修員を多数受け入れてくれた。仲間だ!
海兵隊員は、自分が戦場で負傷したときに、連れて帰ってくれるのを仲間だと信じる。
戦場から仲間を担いで連れ帰る頑強な肉体が必要だとトレーニングする。
日本人のようなスリムな体型から、そういった信頼感は得られない。
だが、戦場で戦士がサバイバル(生き延びる)することが、リーダーの仕事だ。
“I don’t let you go to the Heven alone”は、戦場で死なせないぜ。生きて帰ろうというリーダーのメッセージだ。リーダーは、重いものは運ばないが、常に生き残る戦術(tactic)と戦略(strategy)を考える。
それが海兵隊の中で、生き延びるということだった。
海兵隊員として、海兵隊の部隊とともに戦い、生還する。現実にはあり得ないことだが、自分の中でそういう覚悟を決めるということはできる。
覚悟を決めて、チームの一員として最善を尽くすことが、全ての道に通じるのだ。
最初に、海兵隊員は「誠実で頑強」と書いた。
誠実とは、チームの中で最善を尽くすという考えが基本となっている。生き残るためだ。
海兵隊基地でのサバイバル(生き残り)の生活を思うと、海兵隊のチームの一員として最善を尽くしたから、信頼を得て、生き延びることができた。それは、その後の人生でも役に立った。
Semper FY!常に誠実であれ!“Once a Marine Always A Marine!”(一度海兵隊員になったら、生涯、海兵隊員である)というモットーに今現在もはまっている。
自分に、“Wraaah!”と吠えてみる。
海兵隊で生き延びた方法は、チームの一員として最善をつくすこと。現在の職業は違うが、いまでも人生の指針として役に立っている。
執筆家・英語教育・生涯教育実践者
大学から防衛庁・自衛隊に入隊。10年間のサバイバル訓練から人間の生について考え、平和的な生き方を模索し離職を決断する。時を同じくして米国国費留学候補者に選考され、留学を決意。米国陸軍大学機関留学後、平和を構築するのは、戦いを挑むことではなく、平和を希求することから始まると考えなおす。多くの人との交流から、「学習することによって人は成長し、新たなことにチャレンジする機会を与えられること」を実感する。
「人生に失敗はなく、すべてのことには意味があり導かれていく」を信念として、執筆活動を継続している。防衛省関連紙の英会話連載は、1994年1月から掲載を開始し、タモリのトリビアの泉に取り上げられ話題となる。月刊誌には英会話及び米軍情報を掲載し、今年で35年になる。学びによる成長を信念として、生涯学習を実践し、在隊中に放送大学大学院入学し、「防衛省・自衛隊の援護支援態勢についてー米・英・独・仏・韓国陸軍との比較―」で修士号を取得、優秀論文として認められ、それが縁で定年退官後、大規模大学本部キャリアセンターに再就職する。
修士論文で提案した教育の多様化と個人の尊重との考えから、選抜された学生に対してのキャリア教育、アカデミック・アドバイジングを通じて、キャリアセンターに新機軸の支援態勢を作り上げ、国家公務員総合職・地方上級職、公立学校教員合格率を引き上げ高く評価される。特に学生の個性を尊重した親身のアドバイスには、学部からの要求が高く、就職セミナーの講師、英語指導力を活かした公務員志望者TOEIC セミナーなどの講師を務めるなど、大学職員の域にとどまらぬ行動力と企画力で学生支援と教員と職員の協働に新たな方向性をしめした。
生涯教育の実践者として、2020年3月まで東京大学大学院教育研究科大学経営・政策コース博士課程後期に通学し、最年長学生として就学した。博士論文「米軍大学における高等教育制度について」(仮題)を鋭意執筆中である。
ワインをこよなく愛し、コレクターでもある。無農薬・有機栽培・天日干し玄米を中心に、アワ、ヒエ、キビ、黒米、ハト麦、そばを配合した玄米食を中心にした健康管理により、痛風及び高脂質血症を克服し、さらに米軍式のフィットネストレーニング(米陸軍のフィットネストレーナの有資格者)で筋力と体形を維持している。趣味はクラッシック音楽及びバレエ鑑賞。
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