【World Life】とは?
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NYで起きている“二つの現実”

World Lifeな生活
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こんにちは
NYのKayoです。

秋の風が本格的に冷たくなってきたニューヨーク。市はニュースで連日のように「米国連邦政府シャットダウン4週目」を伝え、連邦職員の給料が止まっている話題が、市民の間で静かに不安を広げています。

国立公園で働く人は、単に毎日の食費や光熱費、支払い期限の迫るレントのことで頭を抱え、ソーシャルワーカーはシェルターの支援が滞る懸念を口にします。

激しい格差

それなのに、先日開催されていたグリニッジ・ヴィレッジのハロウィン・パレードを眺めていたら、あまりの賑わいに目を見張りました。

仮装してパレードに参加した人が6万人、それを沿道で応援する人々が200万人。電飾を思うがままに配した煌めくコスチューム、手作りのマスク、凝りに凝ったゾンビのメイクアップ、通りを埋める笑い声と音楽。

夜空に浮かぶネオンとともに、何百人という人がマイケル・ジャクソンの曲、スリラーで踊り狂い、厳しい現実とはまるで別世界がそこにありました。

ふと自分がどこにいるのかを忘れるような、奇妙で痛快な違和感が胸に広がりました。

別世界が並走するNY

なぜこんなことが起きるのか、端的に言えば、同じ街に別の現実が並走しているのかもしれません。

ニューヨークは富と貧困が隣り合う都市。高級レストランでフルコース・ディナーが続く一方、歩道ではホームレスがさまよっています。

連邦政府のシャットダウンの影響は、部分的に広がっていて、生活の安全網を公的給付に頼っている人たちにとっては直撃ですが、資産のある層やエンターテインメントにお金を使える人々は、外的ショックを受けにくい。つまり、ちょっと違う日常を生きているのかもしれません。

NYに根付く「負けてたまるか」文化

もうひとつ考えられるのは、この街NYの精神的な強さというか、しぶとさ。悲しいことや不条理な出来事があっても、ニューヨーカーは、Life goes on. / ライフ・ゴーズ・オン(人生は続く)とばかりに、精神が折れてしまわないように、日常を力強く演出する術を知っているように見えます。

ナイン・イレブン(アメリカ同時多発テロ)、リーマン・ショック、コロナ・パンデミックという大きな危機を経験し「負けてたまるか!文化・芸術がNYのエネルギー!」という気質が強いのでしょう。

ハロウィンはその最たる例で、年に一度の感情の吐き出し口。仮装という非日常で、不安と怒りと疲れを一晩だけ忘れて、楽しんじゃう。踊ることでストレスを外へ出し、コミュニティの連帯感を確認するとでも言いますか。

「慣れ」が生む麻痺と、それでも続く日常

政治的不信と疲労感も忘れてはいけません。連邦政府の機能停止は何度も繰り返され、そのたびに市民は怒りを抱えつつも、次第に「またか」と慣れてしまう自分に気づきます。

慣れは麻痺を生みますが、その一方で、自分たちの理想に近づくためには、ある程度の今の我慢はやむを得ないと感じでしまう。だからこそ、祭りのような行動に逃げ場を求めるのかもしれません。

矛盾を抱えながら生きる街

もちろん、楽しむ人々=無関心、と言うわけではありません。実際に寄付をしたり、ボランティアに貢献する人たちも、同じ街にたくさんいます。

矛盾に満ちた街ですが、その矛盾自体がニューヨークなのです。

派手な仮装の列を見ながら思ったのは、「怒りや悲しみを抱えたままでも、人は笑いを選ぶ権利がある」ということ。でも同時に、その笑いが誰かの困窮を覆い隠すための方便になってはいけない。

だからこそ、楽しみながらも小さな手助けを忘れない——。そんな「両方の思い」を持ち続けたいと思います。

来年のハロウィンが来る頃には、少しでも多くの人が安心して仮装できる街であってほしい。今年の私の近所の子供たちのハロウィン・ストリート・イベントでは、コスチュームを着ている子供が今年は少なかったの、と言われていました。

派手なダウンタウンの夜の余韻を胸に、コスチュームがなくてもハロウィンを楽しめば良い。私は、家でかぼちゃスープを作っていました。(笑)

助けが必要な時は助け合う街で

サポートが必要な人がいれば、出来る限り助ける。自分が必要な時は、誰かの助けを借りる。それが、私なりのニューヨークとの付き合い方です。

それではまた来週♫
Kayo

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