Bradley’s / ブラッドリーズ
70 ユニバーシティプレース、マンハッタンのユニオンスクエアから数ブロック南に下がった小さなサイン(看板)のジャズバー。1996年にクローズするまで、私の人生の中で1番多く通った店なのではなかったかと思います。食事ができたり、できない時期もあったり。ドアを入ってすぐの所には初老のおじさんが座っていていつも17ドルを徴収するのです。ドリンクが2杯ミニマムで、ソフトドリンクだと元が取れないけれど、バーボンソーダだとちょっとチップを払う位で足りたような覚えがあります。今考えると、どうやってこんな素晴らしいミュージシャンたちにギャラが払えてたんだろうと不思議です。
ハンク・ジョーンズ、トミー・フラナガン、バリー・ハリス、シダー・ウォルトン、ジョン・ヒックス、マルグロー・ミラー、ケニー・バロン、フレッド・ハーシュ、ビル・メイズ、レイ・ブライアント、ジュニア・マンスなど、当時から素晴らしいピアニストがデュオで深夜2時まで演奏してくれて、東京からニューヨークまで飛行機で14時間かけて来た甲斐があったなと、ここのバーに座って彼らを聞いているときには、いつも至福の思いに浸ったものでした。
大人のオーディエンスと、こじんまりしたアコースティックのちょっと古めのバーで、それは落ち着いていました。またグランドピアノが見事で、確かボールドウィンだと思いましたが、ポール・デスモンドが遺言により寄付したとの事。自分の家に置いておくよりもここのほうがいいって。なんて素敵なアイディアでしょう。私たちはその絶大なる恩恵を受けることができました。素晴らしいピアニストが素晴らしいピアノで演奏する、それがやはりベストです。当時の有名ピアニストたちは、こぞってこの店で弾きたい、と思ったそうです。
まさにジャズの黄金時代をニューヨークで輝き続けたジャズバーなわけですが、ものすごい逸話が、いろいろあります。先ほど有名なNew Yorkのピアニスト、ここの常連の演奏者たちの名前を列挙しましたが、彼らは、ほぼ毎晩のようにオーディエンスとしてこの店に足を運んでいたと言うのです。バーに立ってステージを見つめていたと。ある夜は、あの伝説のバンドリーダー、チャールズ・ミンガスがピアノのすぐそばのテーブル席に陣取り、演奏開始後、数曲目の「ラウンド・ミッドナイト」の3小節目のアタマのコードについて、演奏中のさる若手ピアニストに、そこのコードが違うぞ!と怒鳴りつけたそうです。 (怒鳴られたほうもすぐに怒鳴り返して、後ほど仲良くなったそうですが、ハラハラ。NYらしい、笑)
フリー・ジャズの第一人者セシル・テイラーも、バウンサー(ボディーガード)を連れてよく聞きに来ていて、いつもお決まりの席はピアニストのすぐそばのバーのコーナーだったらしい。ドラマーのビリー・ヒギンズが、この店は基本がピアノとベースのデュオで、ドラマーは演奏できないのですが、彼は自分の2本のブラシと(ジャズでは木のスティックの代わりにブラシ状のバチをよく使います、音量は小さいけど、とってもスイングするのです)読みかけの新聞を持って聞きに来ていたそう。それで、普通にテーブル席に座ったままやおらその新聞をテーブルに乗せ、ドラムのスネアがわりにシャッシャッシャッと演奏し始め、見事にトリオになってしまったそうです。彼がフルドラムセットで叩き出すスイング感と、寸分も違わなかったそうな。
枚挙に暇がありませんが、こんな逸話がどんどん出てくる、そんなジャズ最高峰ニューヨークの黄金期、至高のジャズバーBradley’sでした。
平木かよ / Kayo Hiraki
ニューヨーク在住 2017年より、世界屈指の米国グラミー賞の投票権を持つ。同じく米国スタインウェイ・ピアノ公認アーティスト。現在、グリニッジ・ビレッジのジャズの老舗「Arturo’s」のハウス・ピアニストとして、週に5日、自己のトリオで演奏活動を続けて26年目。ニューヨーカーに、スイングの楽しさを届けている。ベースの巨匠、ロン・カーターとのトリオで、ブルーノート・NYへも出演。JALの国際線機内誌でも、海外で活躍する日本人として大きく取り上げられた。また、舞台「ヴィラ・グランデ青山」では山田優がジャズシンガーに扮するシーンでの、ミスティーのピアノ伴奏。カナダ・トロント・リールハート国際映画祭でブロンズメダルを受賞した映画「Birth Day」への挿入曲提供と共に、ピアニスト役で出演。フランス・パリ日本文化会館での館長招聘コンサートや、台湾にて、最大規模を誇る、台中ジャズフェスティバルへの出場など、世界を股にかけるスイング感あふれる彼女のピアノとボーカルには、定評がある。定期的に、くにたち音楽大学ジャズ専修で講義を持つ。