こんにちは
NYのKayoです。
ニューヨークで長くジャズを演奏していると、「ジャズは黒人音楽ですよね」「カントリーは白人音楽ですよね」などと言われることがよくあります。
もちろん、それは間違いではありません。でも、音楽の歴史を少しだけさかのぼってみると、「そんなにきれいに分けられていたのかな?」と首をかしげたくなる出来事がたくさん出てきます。
1920年代、先週の記事でも少し触れましたが、アメリカのレコード会社は音楽を売るために、白人向けには「ヒルビリー(カントリー)」、黒人向けには「レイス・レコード」というカテゴリーを作りました。
今で言えばスーパーの商品棚を分けるようなもので、「こちらは白人のお客様用、こちらは黒人用」。今では信じられませんが、当時はそんな売り方が当たり前。その結果、「白人音楽」と「黒人音楽」は、まるで最初から別々に生まれた、全く違うもののようなイメージが定着してしまったのです。
境界線なんて、最初からなかったのに
当時の南部は、決して「白人も黒人も同じように暮らしていた」時代ではありません。人種差別を定めたジム・クロウ法のもと、学校もバスもレストランも分けられた、厳しい隔離社会でした。
それでも不思議なのは、音楽だけは完全には壁の中に閉じ込められなかったことです。町の祭りやダンスパーティー、農場や工場の仕事場、巡業ショーの舞台裏などで、人々は互いの歌や演奏を耳で覚えていきました。自由に交流できたわけではありません。でも、耳までは隔離できなかった。
私はそこに、アメリカ音楽の一番面白い歴史があるように思うのです。
エルヴィスは、橋を渡った人だった
この話になると、必ずエルヴィス・プレスリーの名前が出てきます。「黒人音楽を真似して成功した白人歌手」と言われることがありますが、私は少し違う見方もできるのではないかと思っています。
確かに、彼の代表曲の多くは黒人アーティストが先に歌っていました。でも、エルヴィス自身も黒人教会のゴスペルやブルースを心から愛し、その音楽の中で育った一人だったのです。
ただ、1950年代のアメリカでは、人種差別がまだ社会に深く残っていました。同じ歌でも、黒人が歌うのと白人が歌うのでは、ラジオで流れる回数も、レコードの売れ方もまったく違ったのです。白人の子供たちが聞く音楽は、親が、白人が歌っているものをチョイスしました。なので、黒人音楽を歌う白人が、確かに必要ではあったのです。
エルヴィスは黒人音楽を作った人、ではありません。でも、その音楽を白人社会へ運ぶ橋のような役割を果たした人だった、と考えることもできそうです。
音楽には、人種よりも大きな力がある
ニューヨークで演奏していると、ステージの上には本当にいろいろな国のミュージシャンが集まります。アメリカ人、韓国系、ヨーロッパから来た人、そして私のような日本人。肌の色も育った環境も違うのに、演奏が始まると、不思議なくらい同じ音楽という言語を共有できるんです。
だからこそ、100年前に「白人音楽」「黒人音楽」と分けられていた歴史を知ると、少し切ない気持ちになります。本当は音楽のほうが、ずっと自由だったのでは。人間があとから境界線を引いただけで、音楽そのものは最初からその線を軽々と飛び越えていたのですね。
そう考えると、ジャズもブルースもカントリーもロックも、みんな同じ大きな家族。ニューヨークという街で毎日のようにさまざまな音楽に触れていると、「いい音楽は、人種と関係なく心に届くもの」。
そんな当たり前のことを、音楽そのものが教えてくれている感じがします。
それではまた次回♫
Kayo
平木かよ / Kayo Hiraki
ニューヨーク在住 2017年より、世界屈指の米国グラミー賞の投票権を持つ。同じく米国スタインウェイ・ピアノ公認アーティスト。現在、グリニッジ・ビレッジのジャズの老舗「Arturo’s」のハウス・ピアニストとして、週に5日、自己のトリオで演奏活動を続けて26年目。ニューヨーカーに、スイングの楽しさを届けている。ベースの巨匠、ロン・カーターとのトリオで、ブルーノート・NYへも出演。JALの国際線機内誌でも、海外で活躍する日本人として大きく取り上げられた。また、舞台「ヴィラ・グランデ青山」では山田優がジャズシンガーに扮するシーンでの、ミスティーのピアノ伴奏。カナダ・トロント・リールハート国際映画祭でブロンズメダルを受賞した映画「Birth Day」への挿入曲提供と共に、ピアニスト役で出演。フランス・パリ日本文化会館での館長招聘コンサートや、台湾にて、最大規模を誇る、台中ジャズフェスティバルへの出場など、世界を股にかけるスイング感あふれる彼女のピアノとボーカルには、定評がある。定期的に、くにたち音楽大学ジャズ専修で講義を持つ。

